「はじめての植物学 植物たちの生き残り戦略」(きむら)

「はじめての植物学 植物たちの生き残り戦略」

 

大場秀章 著

ちくまプリマー新書2013年

 

ぼくが小学生だった頃の話だ。身の回りには植物があふれていた。植木職人だった祖父の作品群は家の庭にところ狭しと並べられ、学校までの通学路にも街路樹や田畑など、至る所に植物があった。その頃のぼくにとって、彼らはただの「植物」だった。

大学4年生の夏が終わる頃、ネブトクワガタ採集へ出かけた。アベマキの樹林やサクラ並木など、いくつもの木々を見て回ったが、なかなか見つけられなかった。そんな夏の暑さも和らぎ、秋に近づく毎日の中、気がつくのは銀杏の香りだ。名古屋市内では、街路樹としてイチョウが植えられ、その実が道端に落ちているのを頻繁に見かける。

ただの「植物」だった彼らが、「アベマキ」や「サクラ」、「イチョウ」に変わった。大学4年生になったぼくは彼らのことをより知ってみたいと思い、本書「はじめての植物学」を手にとった。

本書によれば、植物を構成する基本組織は3つ。葉と茎と根だ。このそれぞれが植物の種によって多種多様な進化を遂げている。本書の特徴は、植物の進化の系統図とも言うべき、植物の多様性を足がかりとして、彼らの体構造を丁寧に解説してくれていることである。

例えば「葉」をひとつとっても、その形は楕円形なのか円形なのか、はたまたやじり形なのか。葉の先端は切形か円形か、はたまた尾形なのか。ユニークな葉達にはじまり、根や光合成、茎にまで本書の内容は展開されていく。

本書読了後、ぼくはより身近な存在として彼ら「植物」を感じられるようになった。大学を卒業し、社会人になった後も、彼らとの付き合いを続けていきたいと思う。

 

古川案

 

(全体的には読みやすく内容も分かりやすい。ただ最後は、「身近」「感じられる」「付き合い」など、あまりクリアではない言葉が多いので、それらを使わない、もしくは具体的にする努力をした方がいい。) ぼくが小学生だった頃の話だ。身の回りには植物があふれていた。植木職人だった祖父の作品群は家の庭にところ狭しと並べられ、学校までの通学路にも街路樹や田畑など、至る所に植物があった。その頃のぼくにとって、彼らはただの「植物」だった。 大学4年生の夏が終わる頃、ネブトクワガタ採集へ出かけた。アベマキの樹林やサクラ並木など、いくつもの木々を見て回ったが、なかなか見つけられなかった。そんな夏の暑さも和らぎ、秋に近づく毎日の中、気がつくのは銀杏の香りだ。名古屋市内では、街路樹としてイチョウが植えられ、その実が道端に落ちているのを頻繁に見かける。 ただの「植物」だった彼らが、「アベマキ」や「サクラ」、「イチョウ」に変わった。大学4年生になったぼくは彼らのことをより知ってみたいと思い、本書「はじめての植物学」を手にとった。 本書によれば、植物を構成する基本組織は3つ。葉と茎と根だ。このそれぞれが植物の種によって多種多様な進化を遂げている。本書の特徴は、植物の進化の系統図とも言うべき、植物の多様性を足がかりとして、彼らの体構造を丁寧に解説してくれていることである。 例えば「葉」をひとつとっても、その形は楕円形なのか円形なのか、はたまたやじり形なのか。葉の先端は切形か円形か、はたまた尾形なのか。ユニークな葉達にはじまり、根や光合成、茎にまで本書の内容は展開されていく。 本書読了後、ぼくはより身近な存在として彼ら「植物」を感じられるようになった。大学を卒業し、社会人になった後も、彼らとの付き合いを続けていきたいと思う。

エネルギーとコストのからくり(きむ)

「エネルギーとコストのからくり」

大久保泰邦 著
平凡社2014年

とても勉強になる一冊であり、半年前に読んでいたかった……。
本書は、エネルギーに対するコストの考え方が重要であると説いている。現代社会のエネルギーを支える重要な資源は石油だ。その石油をめぐる話題を中心に話は進んでいく。
例えば、あなたは200円で仕入れた商品を100円で販売するだろうか。わたしだったらしない。最低でも200円を上回る価格で販売する。これは石油に関しても同じである。石油を採掘するのにかかったコスト、これを上回る価格でしか販売はされない。つまりコストが上がれば、自ずと価格も上昇するのだ。
筆者は石油の消費を温床とした現代社会のあり方に警鐘を鳴らし、日本の産業構造や生活様式を変えるべきであると訴えている。なぜならば石油埋蔵量には限りがあり、その価格はますます高価になっていく一方であるからだ。
就職活動を始める前に本書を読んでいれば、業界選びにおいて非常に有用な判断材料になったのではないだろうか。就活を目の前にする学生に、わたしはこの本をすすめたい。

 

古川案

とても勉強になる一冊であり、半年前に読んでいたかった……。

本書は、エネルギーに対するコストの考え方が重要であると説いている。現代社会のエネルギ

ーを支える重要な資源は石油だ。その石油を中心に話は進んでいく。

例えば、あなたは200円で仕入れた商品を100円で販売するだろうか。わたしだったらしな

い。最低でも200円を上回る価格で販売する。これは石油に関しても同じである。石油を採

掘するのにかかったコスト、これを上回る価格でしか販売はされない。つまりコストが上がれ

ば、自ずと価格も上昇するのだ。

筆者は石油の消費を温床とした現代社会のあり方に警鐘を鳴らし、日本の産業構造や生活

様式を変えるべきであると訴えている。なぜならば石油埋蔵量には限りがあり、その価格はます

ます高騰するからだ。

就職活動を始める前に本書を読んでいれば、業界選びにおいて非常に有用な判断材料になったのではな

いだろうか。就活を目の前にする学生に、わたしはこの本をすすめたい。

(2,3段落の繋がりがわからない。3段落目が抽象的すぎて意味を読み取れない。4段

落目、就職活動との関わりもいまいちわからない。「重要」や「有用」という言葉自体は

意味を持たないので、容易に使わない方がいい)

就活のコノヤロー(きむ)

「就活のコノヤロー ネット就活の限界。その先は?」

石渡嶺司 著
光文社新書2013年

前書、「就活のバカヤロー」発刊から5年。石渡氏が現在の就活事情を踏まえ、前書とは異なるスタイルで執筆したのが本書だ。わたしにとって興味深い点は2点あった。著者による就活生のタイプ別分類と日本における就活協定の歴史、この2点である。
就活生を9つのタイプ、さらに女性(本書中ではなでしこと呼称)を5つのタイプに分けている。わたし自身は、どれか1つのタイプに当てはまるではなく、複数のタイプに当てはまるように感じられた。このタイプ別分類には、「これって私のこと?」と、ドキッとする就活生が多いのではないか。
就活協定とは企業群が中心として定めた、法的拘束力のない紳士協定である。2015年卒業の大卒者には、3年生の12月から説明会等が解禁され、採用は4年生の4月からとなっている。このように、企業が大卒者に対して、いつから採用活動を行って良いかが定められている。この就活協定の起こりは古く、1929年の大学卒業生に適用されたものが初めてだ。しかし、協定を裏切ることが有利な採用活動につながり、最初の協定はわずか6年ほどで無に帰した。その後も就活協定は、新設と廃止の歴史を現代まで繰り返してきたのだ。
前書と本書、両書を通じてわたしは楽しめた。ただ、わたしを含めた就活生にとって、就活は楽しめるものではないだろう。そんなわたしが言いたいことは1つ。就活のコノヤロー!

古川案

「就活のコノヤロー ネット就活の限界。その先は?」 (きむ)
石渡嶺司 著
光文社新書2013年
前書、「就活のバカヤロー」発刊から5年。石渡氏が現在の就活事情を踏まえ、前書とは異なるスタイルで執筆したのが本書だ。特に興味深かったのは、著者による就活生のタイプ別分類と、日本における就活協定の歴史である。
就活生を9つのタイプ、さらに女性(本書中ではなでしこと呼称)を5つのタイプに分けている。わたし自身は、どれか1つのタイプに当てはまるではなく、複数のタイプに当てはまるように感じられた。このタイプ別分類には、「これって私のこと?」と、ドキッとする就活生が多いのではないか。
就活協定とは企業群が中心として定めた、法的拘束力のない紳士協定である。2015年の大学卒業生は、3年生の12月から説明会等が解禁され、採用は4年生の4月からとなっている。このように、企業が大卒者に対して、いつから採用活動を行って良いかが定められている。この就活協定の起こりは古く、1929年の大学卒業生に適用されたものが初めてだ。しかし、協定を裏切ることが有利な採用活動につながり、最初の協定はわずか6年ほどで無に帰した。その後も就活協定は、新設と廃止の歴史を現代まで繰り返してきたのだ。
前書と本書、両書を通じてわたしは楽しめた。ただ、わたしを含めた就活生にとって、就活は楽しめるものではないだろう。そんなわたしが言いたいことは1つ。就活のコノヤロー!

就活のバカヤロー(きむ)

「就活のバカヤロー」
石渡嶺司、大沢仁 著
光文社新書2008年

 

 わたしは就職活動中の大学生。ある日は企業説明会、ある夜はエントリーシート作り、ある昼は個人面接、そして“祈られる“日々。わたしにとって、「就職活動」とは悲しみの連鎖だ。その連鎖を断ち切れるキッカケがあるかも分からない。淡い期待を抱きながら本書を手に取った。
 わたしの本書に対する感情は2つある。憤慨と納得だ。一度目の読後が前者。そして二度目に読んで納得した。本書の内容は就活生と大学、企業を中心としている。わたしは就活生に属しているわけだ。本書の登場人物として、わたしが感じたことは以下のとおり。
 憤慨編。誰に対する憤慨か。それは著者に対してだ。就活生をバカにするな。そんな感情だ。本書で槍玉に挙げられるような就活生(著者はイタいと表現する)は誇張しすぎだし、そんなイタい就活生にわたしは会ったことはない。ただの一度も、だ。
 納得編。少し日が経ち、本書を再読した。そこでは憤慨はなく、本書の内容に納得ができた。なぜならば就活に対するヒントを感じられたからだ。そのヒントとは、他者との交流にあるということ。本書によると、自大学の人に限らず、他大学や社会人と交流することは就活において役に立つという。大いに納得できた。これ以外にもヒントが多くあった。
 日本の慣習となりつつある就活だが、あらなみか、さざなみか、その時期によって変わる。不測な事態に備え、早め早めに就活対策を講じるのも、1つの大学生活の生き方なのかもしれない。ただそんな生き方をするには、4年間はあまりにも勿体ないとわたしは思う。

国際経営 〔第3版〕(きむ)

「国際経営〔第3版〕」

吉原英樹 著

有斐閣アルマ 2011

 国際経営の「いろは」を知りたい時、この本を手にとって欲しい。本書では、日本企業の例を挙げながら、企業の国際化や多国籍企業の経営について語っている。

例えば日本の製造業者が海外において、現地生産を始めたのは、仕方なしの国際化だという。その発端は1985年のプラザ合意だ。これ以降、対ドルの円相場はどんどん高くなっていった。その結果として、日本で生産し、海外、特にアメリカへ輸出した場合の売上高が下がっていってしまったのだ。そのため、日本の製造業者は仕方なしの現地生産を始めた。これを転換に日本企業の国際化が加速されていったという。

 非常に面白い点は、望んでいなかったのにもかかわらずの国際化という点だ。もしもプラザ合意がなく、円高ドル安が進んでいなかったとしたら、現在でも日本企業は輸出中心で、現地生産による国際化はしていなかったかもしれない。企業経営の難しいところは、こういった風に、望まぬ環境に対応していかなくてはならない点にあるのだろう。

 堅苦しい用語を並べた説明ではなく、時系列とともに企業経営の変化を追った説明は大変面白く、興味を失わない。国際経営の初学者にはおすすめのこと、私のように初心に戻りたい学生にもうってつけの教材だと思う。

古川案

 私は大学で国際経営を勉強してきたが、卒業間近のこの時期に、もう一度最初から勉強しようと思った。本書では、日本企業の例を挙げながら、企業の国際化や多国籍企業の経営について語っている。

例えば日本の製造業者による海外現地生産は、現在では当たり前のように行われている。しかしこの国際化は、仕方なく始められたらしい。その発端は1985年の@@@を決めたプラザ合意だ。これ以降、対ドルの円相場は次第に高くなり、輸出売上高は激減した。この対策として、日本の製造業者は仕方なく現地生産を始めた。実はこの打開策が、日本企業国際化の加速に繋がったのだ。

意図しない国際化の加速という点が興味深い。もしもプラザ合意がなければ、日本企業は輸出中心を貫き、現地生産による国際化はなかったかもしれない。このように環境の変化は、企業を打撃を与える一方で、新たなる発展に繋がるチャンスでもあるということだろう。

堅苦しい用語を並べた説明ではなく、時系列の企業変化の解説は大変面白い。国際経営の初心者にはおすすめであるし、私のように初心に戻りたい学生にもうってつけの教材だと思う。

韓非子 不信と打算の現実主義(きむ)

「韓非子 不信と打算の現実主義」

冨谷至 著

中公新書 2003

 時は紀元前、中国全土で戦乱巻き起こる春秋戦国時代。繰り返される争いの渦中、思想家と呼ばれる人々が登場した。孔子や孟子、そして韓非など、彼らは戦火の続く時代で社会の平和と安定を目指して活動していた。本書では当時の時代背景、各思想家の紹介と続き、本旨である韓非子<かんぴし>へと話が展開されていく。

 韓非と同じ時代をともにした思想家たちが性善説(人は生まれながらに善の心を持っている)や性悪説(人は生まれながらに悪の心を持っている)を唱える一方、韓非は人の性の良し悪しについては議論の対象とはせず、ただ人の行動原則をこう考えていた。「人は己の利益を求めて行動する。利益とは、金銭的、物質的な実利はもちろんのこと、名誉、自己満足も含み、いってみればすべて己にとってプラスになるもの(本書p.90より)」韓非によると、人は親子、男女、君主と臣下、いずれの関係にせよ、そこには利害関係という打算が含まれているという。この考え方には、すぐには賛同できないところもあるかも分からないが詳しくは本書に譲る。

 また法、特に刑罰に対する彼の考え方は特異なものであった。「目には目を」で有名なハンムラビ法典に始まり、刑罰の目的は犯罪者への応報という考え方があるが、韓非の場合、犯罪防止としてのみ刑罰の存在を考えていた。その背景には、絶対的存在となるべく法に則った君主の統治と、そのことによって安定した社会を実現させるという目的があったのだ。施行された法は絶対で、いかなる罰も逃れられない。そうした状況を作り出すことで、社会の安寧をはかろうと考えていたという。

 本書は、韓非の考え方と他の思想家のものとを比較しながらの解説内容だった。そのこともあり、複眼的に内容を理解することが出来たと思う。温故知新とあるように、過去の思想家たちの考え方を追ってみることで、どこか新たな境地へ辿りつけたらな、そう思うこともある就職活動まっただ中だ。

↓古川案

 時は紀元前、中国全土で戦乱巻き起こる春秋戦国時代。繰り返される争いの渦中、思想家と呼ばれる人々が登場した。孔子や孟子、そして韓非など、彼らは戦火の続く時代で社会の平和と安定を目指して活動していた。本書では当時の時代背景、各思想家の紹介と続き、本旨である韓非子<かんぴし>へと話が展開されていく。韓非の思想は、「人の本性」と「刑罰のあり方」の2点において特異であった。

 「人の本性」は善か悪か、つまり性善説か性悪説のどちらであるかという議論は、当時の思想家たちの間では重要なテーマであった。その一方、韓非は人の性の良し悪しについては議論の対象とはせず、人の行動原則をこう考えていた。「人は己の利益を求めて行動する。利益とは、金銭的、物質的な実利はもちろんのこと、名誉、自己満足も含み、いってみればすべて己にとってプラスになるもの(本書p.90より)」韓非によると、人は親子、男女、君主と臣下、いずれの関係にせよ、そこには利害関係という打算が含まれているという。この考え方には、すぐには賛同できないところもあるかも分からないが詳しくは本書に譲る。

 また「刑罰のあり方」に対する彼の考え方は特異なものであった。「目には目を」で有名なハンムラビ法典に始まり、刑罰の目的は犯罪者への応報という考え方があるが、韓非の場合、犯罪防止としてのみ刑罰の存在を考えていた。その背景には、絶対的存在となるべく法に則った君主の統治と、そのことによって安定した社会を実現させるという目的があったのだ。施行された法は絶対で、いかなる罰も逃れられない。そうした状況を作り出すことで、社会の安寧をはかろうと考えていたという。

 本書では、韓非と他の思想家との考え方の違いがわかりやすく解説されている。それにより、ものごとの多面性を理解することが容易であった。温故知新と言われるように、過去の思想家たちの考え方を追ってみることで、どこか新たな境地へ辿りつけたらな、そう思うこともある就職活動まっただ中だ。

毎日乗っている地下鉄の謎 (きむ)

「毎日乗っている地下鉄の謎」
梅原淳 著
平凡社新書 2010年

 国土交通省が認定している10の地下鉄事業者を2007年度に利用した人の数は合計で51億人を超え、1日当たり1400万人にも達していたという。2007年度といえば、私はまだ中学3年生で、身近な交通機関は東武鉄道だけだった。残念なことに51億人のうちの1人に、当時の私は含まれていなかった。
 「毎日乗っている地下鉄の謎」、本書は全7章で構成されており、各章ごとに地下鉄の謎を、数値データととともに明かしていってくれる。地下鉄の基礎知識や歴史、地下鉄ならではの工夫など、盛りだくさんの内容が詰め込まれている。普段利用している地下鉄と電車の細かい違いから、その違いの歴史的背景、地下水問題など、興味深い内容が多かった。
 日本で初めの地下鉄はどこだと思うだろうか。おそらく合点がいこう、東京だ。1927年、浅草と上野間、2.2キロが営業を開始した。次いで大阪でも開業された。人口が多く、その移動方法が必要となった結果、地下鉄が開業されたのだ。地上を走る自動車や路面電車でもさばききれなくなった、その解決法として地下に目が向けられる。合理的な考え方に思えるが、地下鉄の開業、特に建設には多大なる苦労が伴っていた。どこに線路を通すのか、どうやって線路を作り、どこに駅を起き、どんな仕組みで電車を走らせるか。様々な問題があったものの、その一つ一つを解決していった結果、現在のような世界的にも巨大な地下鉄網が整備されたのである。
 就職活動を始めた私は、名古屋市内はもとより、東京都内でも頻繁に地下鉄に乗ることになると思う。もともと移動時間というものが嫌いなのだが、本書のおかげで地下鉄による移動だけは楽しむことができるだろう。もしも「毎日乗っているバスの謎」があれば読んでみたい。その次は「自転車」か「徒歩」だ。

↓古川案

2007年度の地下鉄利用者は51億人を超えた。1日当たりにすると1400万人にもなる。中学3年生だった私の身近には、地上を走る東武鉄道しかなかった。私はその51億人の1人にも貢献できていない。

「毎日乗っている地下鉄の謎」、本書は多くの数値データをもとに、地下鉄の謎を暴いている。地下鉄の基礎知識や歴史、変わった工夫など、内容は盛りだくさんだ。地下鉄と電車の細かい違いが原因となる、歴史や地下水問題なども興味深かった。

ところで日本最古の地下鉄はどこだろうか。おそらく合点がいこう、東京だ。1927年、浅草と上野間、2.2キロが営業を開始した。次いで大阪でも開業した。その当時、人口増加により地上での輸送はすでにキャパを超えていた。その解決策として地下に目が向けられる。合理的な考えだが、開業までの道のりは険しかった。どこに線路を通すのか、どうやって線路を作り、どこに駅を置き、どんな仕組みで電車を走らせるか。これらの問題を一歩一歩乗り越えた結果、世界的にも巨大な地下鉄網に発展したのである。

就職活動を始めた私は、名古屋はもとより、東京でも頻繁に地下鉄を利用するだろう。移動時間はどうも好きになれないが、本書はそれを楽しみに変えてくれそうな気がする。この著者には、「毎日乗っているバスの謎」もお願いしたい。いっそのこと「自転車」、「徒歩」と続けばいい。そうすれば、面倒な問題がはびこる世の中に笑顔が増えて、みんなハッピーになれるかもしれない。

ヒトはどうして死ぬのか (きむ)

「ヒトはどうして死ぬのか 死の遺伝子の謎」
田沼靖一 著
幻冬舎新書 2009年

 ヒトはどうして死ぬのだろうか。身近な存在の死に接して、初めて抱く感情かもしれない。ヒトだけではなく、目に映るほとんどの生命は死んでしまう。生と死は表裏一体の関係で繋がれている。私の20年の人生ではそれが真理だった。
細胞の『死に方』には2種類ある。ネクローシス(壊死)とアポトーシス(自死)だ。ネクローシスは外部的要因に大きく左右されて発生するのに対し、アポトーシスは内部的要因によるものだと言えるだろう。『あなたは不要なので死んで下さい』その指令によって細胞はアポトーシスする。不要とは、全と比べた個の価値である。全体主義に細胞は従っているのだ。
 生物の発生過程においてアポトーシスは顕著に表出される。本書では人間の手やおたまじゃくしからカエルへの成長などの例が挙げられていた。多めに用意し、不要な部分は削って形を作る。彫像と同じだ。
 著者は生と死を表裏一体で捉えてはおらず、死は『性』と一対と考えている。およそ35億年前に生命が誕生したが、当時の生命は単純な分裂を繰り返し、増殖を続けるのみだった。そこに個体の死はなかった。およそ10億年前に生命は有性生殖を開発した。こうして性が現れたわけであるが、同時に個体の死が訪れるようになった。性が生まれたことで子孫にはランダムなパタンな遺伝子を残すことができ、より外部環境に適応することができ得る。古い遺伝子のままの個体が残ったままでは結局のところ種に環境適応力はつきづらい。そのために古い個体は死ぬのだ。子孫をより環境適応させる目的で性が生まれ、子孫の足手まといにならないために死ぬ。つまり生と死は表裏一体ではなく、生の内側に死が含まれているのである。
 私にとっては全く初めての考え方であり、著者は死を科学的に捉えようと試みていた。死に対する考え方が改められた。いずれ死ぬことは紛れも無い事実であり、生きることは死ぬことでもあるのだ。まるで侍のようであるが、自身の死を意識させられた私は死に花を咲かせたいと感じた。まずは『死に花』を見ようと思う。

あのころ (きむ)

「あのころ」
さくらももこ 著
集英社 1996年

 昔のことを思い出してみようかな。
 小学校と中学校。その境目の小学校6年生。中学への期待と不安。小学校の恩師との別れ。様々な気持ちが入り乱れるのが初めての時期かもしれない。
 ボクは男3人兄弟の末っ子だ。2つ上と4つ上の兄がいる。真面目で何事もそつなくこなせるようでいて、積極性がなく挑戦をしないだろう長男。真面目で正直なわりに、頭に血が上りやすく、傷つきやすい様相を見せている次男。真面目だと自称するも、持続的努力を怠る三男。幼い頃は容姿がそっくりだと言われたが、現在ではありえない。おぼろげに似ている点は見いだせるかもしれないが。
 そんなボクも小学校6年生だった時期があったし、中学への入学もあった。その頃のことだ。
 兄が2人もいると、末っ子のボクには新しいモノはまわってこない。おもちゃに限らず、体操服や靴下の衣類だってお古だった。その頃のボクは兄弟の中でも特に小さく、細かった。兄たちの衣服のお古では、ボクにはサイズが大きすぎた。母は「大は小を兼ねる!」なんて得意げな表情を浮かべて、ボクにお古を強要する。一方でボクは「『大は小を兼ねる』。それは20世紀までの考えだ!」なんてCMで覚えたフレーズで反抗していた。多分大きさの問題は大したことではなくて、新しいモノを与えられないことに嫉妬をしていたんだろう。
 そんなボクだが、中学校へ入学したら、大きいサイズの服を好んだ。身体が締め付けられない、ゆるくてぶかぶかな服が好きになった。兄のお古はその頃では丁度よいサイズになっていたけれど、今度は大きいサイズが欲しいといって、ごねていた気がする。たった数年でガラっと考え方が変わってしまうものだから、親としては扱いにくかっただろう。
 ボクは現在二十歳を迎えた。今のボクは昔のボクよりは、世界のことも、社会の仕組みもずっと分かる。分かることが増えるのは嬉しいようでいて、できることとできないだろうことも分かってしまう。昔のボクと比べてみて、今のボクの可能性は狭くなった。と、考えるか。進むべき航路が明確になってきた。と、捉えるか。難しい。
 ボクの子供時代と作者の子供時代では、環境が違っただけに全てにわたってはうなずけない。魔法のアイテムを売るおじさんはいなかったし、広いお庭を持ったお金持ちの友達もいなかった。遠足の目的地でトイレがないことはありえなかったし、ツチノコを探した経験もない。だけど同意できることもあって、面白い。たまには自身の子供時代を思い出してみてはどうだろうか。立ち止まって、休むことも時には大事だと思う。(ボクは休みっぱなしだけど)

疑似科学入門 (きむ)

「疑似科学入門」
池内了 著
岩波新書 2008年

 疑似科学ってなに? 初めて目にする人がいるかも知れない。科学チックでありながら、その実は科学ではないこと。科学らしからぬ非合理を持ち合わせているのに、科学のような我がもの顔をしていること。科学と疑似科学、両者の違いってよくわからないよね? 言葉では似たようなものだけど、私たちの生活への影響は全く違うものみたい。
 科学によって私たちはとても便利な生活を送れている。携帯電話があれば、どこにいたって友達に連絡をとれるし、撮影した写真はインターネットを介して世界中に発信することだってできる。エアコンは過ごしやすい室温を維持してくれるし、車があればどこにでもいける、飛行機なら海外へだってひとっ飛び。科学の恩恵は計り知れないものになっている。
 疑似科学は、例えば占い。占いが当たることは合理的? 非合理でしょう。簡単に運勢だって、未来だって、見透かされるわけ無いし、見透かされたくない。私はそう思うけど、そうじゃない人だっている。未来が不安だから、安心できる言葉を聞かせて欲しい。そういう人は疑似科学に騙されやすいのかもしれない。決して科学的な根拠に則っているわけではないけど、それらしく言葉巧みに並べて信じこませる。占いに頼りきった生活。全然魅力的じゃない。
 占いだけじゃない。製品の説明で使われる統計。本当にそのまま信じていいの? 一定数以上のサンプルは確保されているのか。対象集団は多様的にバラけているのか。回答の書き方は公正なものになっているのか。考えなくてはいけないことがたくさんありすぎて、私たちは手放しに信じてしまっている。あなたがそうではなくても、私はそうだ。考えることを放棄して、素直に信じてしまったほうがとても楽。でもそれでいいのかな。
 すぐに信じてしまうのではなく、考えること、疑ってかかること。それが大切。受け取った情報は発信者によって都合よくねじ曲げられたものかもしれない。だから疑ってみること。難しいけど、やってみるべき。与えられた選択肢から選ぶだけの生活から脱出したい。第三、第四の選択肢を新たに想像したっていいじゃない。考えることで疑似科学に騙されないようになろう。自分の意志を自分自身で決められるようになろう。そういう大人に私はなりたい。